『ポリアモリー 複数の愛を生きる』への批判。研究対象へのコミットメント不足という問題。 / by Nao-Horomura

昨日に引き続き、深海菊絵氏の『ポリアモリー 複数の愛を生きる』について書きます。

昨日は、「著者がポリアモリーを実際に自分でやったことがないために、ポリアモリーについての記述が、表面的で、特定の現象をモノガミー視点で切り取ったものに過ぎず、ポリアモリーのリアリティとは異なるものになってしまっている。また、ポリアモリーについて研究した動機も不明瞭で、問題提起や、新しい視点を示すことも出来ていない。」と、コミットメント不足の、研究上の問題を書きました。

今日は、「コミットメント不足」の別の問題を指摘します。それは、責任という問題です。

筆者は、ポリアモリーを日本に紹介したかった理由のひとつに、「なにかしらの事情で愛の関係に悩んでいる方々に、新しい選択肢の一つとして、ポリアモリーを紹介したかった」と書いていますが、自分がポリアモリーをやったことがないのに、新しい選択肢として紹介するなんて無責任なことがあるでしょうか。

これは、本質的には、食べたことのない食べ物を人に勧めることや、生活したことのない土地に住むことを人に勧めることなどと変わりません。

ここ10年、20年ほどで、日本では、そのような無責任な姿勢が蔓延するようになりました。コンビニエンスストアの店員も、チェーンのレストランの店員も、アパレルショップの店員も、特別な店舗や特別な店員を除いて、自分の販売しているものをよく知りません。お客様対応窓口も、マニュアルに沿って話をするだけで、自分が何をやっているのか、詳しいことはわかっていません。もちろんそれは、安い給料で働かされる派遣社員やアルバイトの増加などといった、大企業の利益の追求の結果なので、店員や窓口の人々だけの責任だとは言えません。むしろ、店員や窓口の人々も、自分の仕事に対して、数十年前であれば持てたであろう誇りを持てないという意味で、被害者とも言えるでしょう。しかし、無責任な仕事であることには変わりません。

ポリアモリーを実際にやってみてもいないのに、愛の関係に悩む人にポリアモリーを勧めるといった姿勢は、まさに、こうした「コミットメント不足」の現代社会を体現しています。そうしたものに慣れきった人々には、違和感なく受け取られるのかもしれませんが、私は強い違和感を持ちました。ポリアモリーというのは、深いコミットメントを重視するムーブメントなので、そのギャップから違和感が強かったのかもしれません。

また、著者は、ポリアモリーに対するコミットメントだけでなく、日本とアメリカに対してのコミットメントも不足していると私は思いました。日本で、日本人向けにポリアモリーを勧めるのであれば、アメリカのポリアモリーを、背景を無視して現象としてだけ日本に持ってくるようなやり方ではなく、日本が現実に抱えている問題を解決するような方向で、ポリアモリーを勧めていくべきです。日本とアメリカは、宗教的な背景、法律、性愛への積極さ、ワークライフバランス、女性の地位など、恋愛の前提となるものが異なっているのです。そうしたふたつの背景を前提とした上で、ふたつの国で起こっている現象を見つめ、日本人に向けて意味あることを、責任をもって発信すべきだと、私は思います。もちろんポリアモリーは世界的なムーブメントでもありますし、「ポリアモリー」という名前を使わなくても、「ポリアモリー」が指し示す人間関係を自然と行っている人々なども世界中に存在しますので、そうした研究も行っていく必要があると私は思います。私たちテトラヒドロン人間関係研究所は、実際、そうした研究を、日々、行っております。深いコミットメント、仕事への責任とはそういうものです。