ポリアモリーをめぐる状況 by Nao-Horomura

「ポリアモリーって、浮気や不倫の言い訳や開き直りでしょ、って言われていて。悔しいじゃないですか。」
この間、ポリアモリーについての取材を受けた際に言われて、驚いた一言だ。

私は、私の周りの人たちにも、恋人たちにも、そんなことを言われたことは一度もない。むしろ、「一途だね」と、言われることが多い。私を通してポリアモリーを知る人たちは、ポリアモリーについて、浮気や不倫の言い訳や開き直りだ、というイメージは全く持っていない。

ポリアモリーが「浮気や不倫の言い訳や開き直り」だと思われてしまうのは、実際に「浮気や不倫の言い訳や開き直り」としてポリアモリーを名乗る人たちが大勢いるからだろう。

例えば「自分はポリアモリーという、複数を好きになる性質である」という言い方もそのひとつだ。「そうした性質なのだから、浮気や不倫、多股は仕方のないことなのだ」という論理がそこにはある。ポリアモリーとは、複数を好きになる性質を指す言葉ではないのだが、浮気や不倫、多股の言い訳や開き直りとして、ポリアモリーという言葉をこのように使用する人たちが後を絶たない。

同様の問題は日本だけでなく、欧米でも起こっていて、2018年には、英Independent誌に、”Straight men need to stop using polyamory as an excuse to manipulate women into casual dating”(ストレートの男たちは、複数の女たちとカジュアルなデートをする言い訳としてポリアモリーを使うのをやめるべきだ)というタイトルの記事が掲載された。そこには、”It’s easy to see why someone interested in dating multiple women with zero commitment might see this as the perfect excuse, but polyamory in fact requires more commitment and trust than monogamy does”(ゼロコミットメントで複数の女たちとデートをしたい人たちは、ポリアモリーをパーフェクトな言い訳とみなしているが、実際には、ポリアモリーにはモノガミーよりもコミットメントと信頼が必要である)と書かれていた。

こうした流れの中、欧米のポリアモリストたちは、自らを、ethical non-monogamy と呼ぶようになってきている。

ポリアモリーへの誤解 by Nao-Horomura

■ポリアモリーへの誤解  

Oxford dictionaryには、ポリアモリーの項目に、『The practice of engaging in multiple sexual relationships with the consent of all the people involved.』と書かれています。

 ポリアモリーという言葉は、1990年代のサンフランシスコで広まり始めました。サンフランシスコは、1960年代後半、ヒッピームーブメント、『Summer of Love』が起こった地です。このヒッピームーブメント、『Summer of Love』は、学生たちの自主性を重んじようとする学生運動や、反戦運動、ロックミュージックの台頭、エコロジー運動など、理想の追求、可能性の追求という色合いが強いものであり、それまでの人類のあり方への反省を多く含んだものでした。そこには、従来の家族のあり方や男女関係への反省も、当然、含まれておりました。ポリアモリーがサンフランシスコで広まり始めたのは、60年代後半のヒッピームーブメントや『Summer of Love』と、無関係ではありません。

 ポリアモリーの本質は、従来の家族のあり方や男女関係への反省、理想の追求、可能性の追求であり、より良い未来を作っていこうという姿勢にあります。

 例えば、1970年代に結成されたケリスタ共同体というポリフィデリティ(決まった複数人とのみ関係を結ぶこと)を実践していた共同体は、愛する人が自分以外の人を愛するときに感じる喜びを発見し、『Compersion』と名付けました。

 日本においては、こうした、ポリアモリーという概念が生まれてきた背景があまり知られておらず、「複数の恋人を持とうとする人」や、「同時に複数の人を好きになってしまうマイノリティ」などといった意味で使われています。これはとても残念なことです。

深海菊絵著『ポリアモリー 複数の愛を生きる』に見られるsex negativeな論理。 by Nao-Horomura

何日かに渡って深海菊絵著『ポリアモリー 複数の愛を生きる』の研究の問題点を指摘してきましたが、私は、深海菊絵氏に全面的に責任があるとは思っていません。というのも、深海菊絵氏は日本の大学に籍を置いている研究者であり、様々な圧力がかかっていることも考えられるからです。

日本の大学ではまだまだ性に対しての様々な差別があります。女性差別、特定の性行動を病気と見做すような差別など、それらは多岐に渡ります。差別的な見方を教えられることも少なくありませんし、差別的な見方をする教授たちに気に入られるような研究が出来ないと、ポジションが得られなかったりもします。

実際、私は、日本の社会学の教授から、ポリアモリーを公言しないように促されたこともありますし、本の出版に関して内容を変えるように促されたりもしました。そうした圧力はとても大きなもので、私自身、ものすごい疲労感をおぼえましたし、身の危険も感じました。

このような日本の大学の状況を考慮した上で、深海菊絵氏『ポリアモリー 複数の愛を生きる』の問題点、sex negativeな態度が見受けられる箇所を、指摘します。例えばそれは、以下のような記述です。

「性革命」はアメリカの性の歴史に多大なインパクトを与えた。しかし、短命だった。八〇年代に入ると性の探求者たちは表舞台から徐々に姿を消し、家庭崩壊を恐れた人びとは性道徳の再建を望みはじめる。さらに、伝統的な性道徳を守ろうとする保守派から性解放派に対する本格的な反撃がはじまっていく。一九八〇年代初頭に発見された「エイズ」も、こうしたバックラッシュに拍車をかけた要因となった。六〇年代から七〇年代にかけて興隆した「性革命」は後退し、人びとは保守的な性モラルを説くレーガン大統領とともに性的秩序の回復に向かっていったのである。(深海菊絵著『ポリアモリー 複数の愛を生きる』47頁)

「性革命は短命に終わった」だなんて、いったい筆者はどこを見てそんなことを言っているのでしょうか。

筆者は60年代、70年代に興隆したムーブメントを「性革命」と捉えています。おそらくこの「性革命」とは、フラワームーブメントやヒッピームーブメント、Summer of Loveなどと呼ばれているもののことでしょう。しかし、このムーブメントは、決して、性という側面からだけ見て理解することはできないものです。学生たちの自主性を重んじようとする学生運動や、人権意識の高まり、反戦運動、フリージャズ、ロックミュージックの台頭など、様々なものと関連しているのです。これらとの関連性を無視し、これらひとつひとつへの深いコミットメントを欠いたまま、性について起こったムーブメントだけを取り上げても、多くのことを見落としてしまいます。

さて、筆者が指摘するように、これらのムーブメントは、短命に終わったのでしょうか?

・・・まさか!

このムーブメントを引っ張った人々、このムーブメントに大きな影響を受けた人々は、今も世界中で大活躍していますし、このムーブメントの中生まれたアイディアは、今も進化し続け、世界中に影響を与えています。私の行っている、「コーチング」もそのひとつです。

最も分かりやすい例が、Apple社でしょう。ヒッピームーブメントの多大な影響下で生まれたApple社は世界時価総額ランキングで断トツのトップです。

また、今年6月26日には、とうとう、アメリカ国内で同性婚が合法になりました。LGBTQの人権運動の拡大に、インターネットの普及やiPhoneの普及などが関わっていることは言うまでもありません。これらは全て、深く関係しているのです。このように、私たちは、闘い続け、進化し続け、その渦中に今もいます。

また、筆者は、『レーガン大統領とともに「性的秩序の回復」に向かっていった』と書いていますが、ここで起こったことは、正確には、エイズを背景とした、同性愛者へのあからさまな差別、弾圧などです。これらを「性的秩序の回復」などと呼ぶことに、私は疑問を感じます。

このように、使う言葉の端々に、論理の端々に、sex negativeな態度が見受けられるのです。

基本的に、ポリアモリーは、sex positiveなものです。根底に流れる sex positive な態度を自分の中に取り込み、sex positive な人々が目指すものを共に見ることをしなければ、ポリアモリーを理解することは出来ません。

 

『ポリアモリー 複数の愛を生きる』への批判。研究対象へのコミットメント不足という問題。 by Nao-Horomura

昨日に引き続き、深海菊絵氏の『ポリアモリー 複数の愛を生きる』について書きます。

昨日は、「著者がポリアモリーを実際に自分でやったことがないために、ポリアモリーについての記述が、表面的で、特定の現象をモノガミー視点で切り取ったものに過ぎず、ポリアモリーのリアリティとは異なるものになってしまっている。また、ポリアモリーについて研究した動機も不明瞭で、問題提起や、新しい視点を示すことも出来ていない。」と、コミットメント不足の、研究上の問題を書きました。

今日は、「コミットメント不足」の別の問題を指摘します。それは、責任という問題です。

筆者は、ポリアモリーを日本に紹介したかった理由のひとつに、「なにかしらの事情で愛の関係に悩んでいる方々に、新しい選択肢の一つとして、ポリアモリーを紹介したかった」と書いていますが、自分がポリアモリーをやったことがないのに、新しい選択肢として紹介するなんて無責任なことがあるでしょうか。

これは、本質的には、食べたことのない食べ物を人に勧めることや、生活したことのない土地に住むことを人に勧めることなどと変わりません。

ここ10年、20年ほどで、日本では、そのような無責任な姿勢が蔓延するようになりました。コンビニエンスストアの店員も、チェーンのレストランの店員も、アパレルショップの店員も、特別な店舗や特別な店員を除いて、自分の販売しているものをよく知りません。お客様対応窓口も、マニュアルに沿って話をするだけで、自分が何をやっているのか、詳しいことはわかっていません。もちろんそれは、安い給料で働かされる派遣社員やアルバイトの増加などといった、大企業の利益の追求の結果なので、店員や窓口の人々だけの責任だとは言えません。むしろ、店員や窓口の人々も、自分の仕事に対して、数十年前であれば持てたであろう誇りを持てないという意味で、被害者とも言えるでしょう。しかし、無責任な仕事であることには変わりません。

ポリアモリーを実際にやってみてもいないのに、愛の関係に悩む人にポリアモリーを勧めるといった姿勢は、まさに、こうした「コミットメント不足」の現代社会を体現しています。そうしたものに慣れきった人々には、違和感なく受け取られるのかもしれませんが、私は強い違和感を持ちました。ポリアモリーというのは、深いコミットメントを重視するムーブメントなので、そのギャップから違和感が強かったのかもしれません。

深海菊絵著『ポリアモリー 複数の愛を生きる』への批判。外からポリアモリーを眺めるだけでは、ポリアモリーの視点は獲得できない。 by Nao-Horomura

先日、ポリアモリーについて一冊の本が出ました。深海菊絵氏が書いた『ポリアモリー 複数の愛を生きる』という本です。

この本を読んでまず私が思ったことは、「いったい著者は何の為にこの本を書いたのだろう?」ということでした。

なぜそう思ったかというと、この本が、「ポリアモリーの実践者の切実な動機に迫り、問題提起をする」といったものや、「ポリアモリーを選択したい人々に役立つ情報を与える」などといったものではなく、表面的に、現象としてのポリアモリー(モノガミーの視点から見たもの)を書き連ねたものになってしまっていたからです。

著者はポリアモリストではないため、これは仕方のないことかもしれません。

外からポリアモリーを眺めるだけでは、ポリアモリーの視点は獲得できません。

ポリアモリーを実際にやってみて、ポリアモリーの視点を手に入れなければ、いくらポリアモリーを観察しても、「ポリアモリーを選択する人々の切実な動機」や「ポリアモリストが持つ社会に対する問題意識」「感覚」「思想」「困難」「夢」などといった、ポリアモリーにとって現象そのものより重要な事柄は、スコトーマ(盲点)に隠れたままになってしまいます。

また、インタビューやフィールドワークをする際も、「ポリアモリスト」という立場で行うのと、「ポリアモリストではないがポリアモリーを研究対象としている」という立場で行うのとでは、聞くことのできる話も、見ることのできるものも、異なってきます。

先日、カリフォルニア大学バークレー校で行われた、ポリアモリーの国際学術会議では、ポリアモリストである私と参加者の間で、活発な議論が起こりました。それは例えば、「日本のフェミニストはポリアモリーを推奨しないのか?」というものです。ポリアモリーとフェミニズムは直接的に結びついてはいませんが、女性の人権というテーマに対して真剣に取り組むポリアモリストはたくさんいます。また、離婚率の増加や、連続単婚といった社会問題を解決する手段としてポリアモリーを実践し、推奨する人々もたくさんいます。

私は、ポリアモリーというのは、単に現象として捉えるべきものではないと考えます。それを選択する切実な動機や、ポリアモリーを実践する人々が感じる体感、そうしたものが、現象そのものよりずっと大切で、価値あるものだと思っています。

ですので、ポリアモリーについて研究するのなら、まず、ポリアモリーを実際に自分が試してみて、内部に入り込むことでポリアモリーの視点を獲得してほしいと思います。そうでなくては、その研究は、猿山の猿を人間の視点で観察するのとそう変わらない、リアリティのないものになってしまうからです。

ただし、モノガミーの立場から、ポリアモリーを論じることもできると私は思っています。例えば、著者は、「自分とは異なるかたちの愛や家族を築いていける人を受け入れることのできる社会ができれば。そんな思いを抱きながら本書を執筆しました」と、あとがきに書いていますので、「自分とは異なるかたちの愛や家族を築いている人を、社会が受け入れるべき理由」を論じながらポリアモリーが置かれている社会的な状況について触れることが、そのひとつでしょう。

いずれにしても、私は、問題提起をすることや、新しい視点を示すこと、そして、それらが自分の経験に基づくものであることが、最も重要なことだと思っています。日本においては、なぜかこうしたことが重視されない傾向にあり、それが、日本が、ビジネス、学問、アートなど、様々な分野で世界から遅れをとっている原因だと思っています。