スペイン追放の生存者達

:イビサ島における隠れユダヤ人の歴史について
SURVIVORS OF THE SPANISH EXILE: THE UNDERGROUND JEWS OF IBIZA
 

 

グロリア・マウンド(Gloria Mound)著

JL;99 22 Shevat 5748 / 10 February 1988

生駒翼 訳

 

目次:ピティウセス諸島/長い寛容の伝統/開かれた秘密共同体/修道院に隠されたシナゴーグ/隠れユダヤ人との出会い/スペイン内戦によるユダヤ人共同体の瓦解/ユダヤの再生

 

【編集追記:スペイン及びポルトガルにおける、隠れユダヤ人の驚嘆すべき忍耐力は、20世紀において、人々の心をつかんで離さない屈指の人間ドラマの一つであると言える。スペイン、ポルトガルの自由化が進むにつれて、500年以上の歳月に渡って存続し続けた隠れユダヤ人の痕跡がより明るみに出るようになった。500年前にユダヤ人がスペインから追放された記念の年から今年で4年が経過したに過ぎない。私たちはバレアレス諸島(the Balearic Archipelago)の一つであるイビサ島(Ibiza)にて、隠れユダヤ人の共同体の再生の歴史を追ってきている。その歴史の中身には、それらユダヤ人達が長い年月をかけて行ってきたシナゴーグ(Synagogueユダヤ礼拝堂)や学校の維持、ユダヤ人としての国際貿易従事、ユダヤ人ではない隣人からの受容といったユダヤ共同体存続のストーリーが詰まっている。この度嬉しいことに、このエルサレムレター(The Jerusalem Letter)を公開することができた。この手紙はグロリア・マウンドによって書かれている。彼女は夫のリーズリーと共にこれらユダヤ人達を再びユダヤの世界に戻すための支援をライフワークとしていた。】

 

 

ピティウセス(Pitiuses)諸島

ピティウセス諸島はスペイン海岸の沖合、西地中海のバレアレス諸島(the Balearic Archipelago)の南西端に位置している。同諸島のユダヤ人の歴史は27世紀前に渡る。最初のユダヤ人は、フェニキア商人(Phoenicians)として来島したと記されている。商人志向であったフェニキア人は、イビサ島とフォルメンテーラ島の二島の最初の開拓者である。紀元前645年(現在のチェニジアにある)古代都市国家カルタゴ(Cartage)が建設されてから、僅か160年後の事であった。その後、ローマ帝国(The Romans)がこれらの島々の征服に成功し、カルタゴはローマ帝国によって滅亡させられたが、この時、イビサ島民がこの新たな占領者との間に条約を結んでくれたお陰で、最高級のフェニキアの考古学的遺跡が20世紀の今になっても尚、現存している。

ピティウセス諸島の景観はとても美しい。イビサ島はおおよそ縦25マイル、幅8マイルの大きさで、約200マイルに及ぶ海岸線を有している。イビサの街は今も、1554年のチャールズ5世(Charles V)の命によってイタリア人技師カルヴィル(Calvil)が建てた、壮言な壁と要塞に囲まれている。フォルメンテーラ島(Formentera)は縦3マイル、幅8マイルの比較的小さく平らな島である。

 

長い寛容の伝統

1960年代のイビサ島とフォルメンテーラ島に対する旅行産業の急騰により、しばしば、島が有するのびのびとした楽園のような雰囲気は世界中からきた旅行者らによってもたらされたのだと誤って結論付けられることがある。実際には、イビサ島民が持つある種独特な寛容さは、単に彼らが旅行者をおびきよせるために仕掛けているのではなく、彼らが行ってきた数多の人道保護の歴史を反映している。それは、スペイン支配下におけるピティウセス諸島において、ユダヤ人が生き残るために必要不可欠なものだった。それによって、スペイン内戦(The Spanish Civil War)が起こる1936年までの間、ユダヤ共同体は維持し続けることが出来たのである。2000年もの間、イビサ島民は、互いに平和的に共生を営む多文化共同体社会の最高のお手本となり続けていたのだ。イビサ島民は、支配者がフェニキア人、ローマ人、ギリシア人、カルタゴと移り変わっていく中で、常にそうした支配者からユダヤ人を保護し続けてきたのである。

何世代にもわたって、歴史学者らは、バレアレス諸島の南先端部のユダヤ人も、わずか80マイルあまり離れた場所に位置するマヨルカ島のユダヤ人と同じ苦難の運命を歩んだに違いないと主張してきた。マヨルカ島は長年恐ろしい反ユダヤ暴動の地となっていたのだ。けれども、イビサ島とフォルメンテーラ島のユダヤ人は、厳しい尋問から生き残り、現代まで残ることができた。学者が唱えていた言説は、先入観があっという間に広まって作られたものに過ぎない。ユダヤ人がどのように生活を営み、貿易を行い、保護されてきたのかといった歴史が明るみになってきたのは、ここ数年の話なのである。

マヨルカ島におけるユダヤ人の歴史の根拠は十分にある。マヨルカ島におけるユダヤ人の文書資料も存在する。マヨルカ島より約25マイル離れた、バレアレス諸島の最も北に位置しているミノルカ島は、その島自体が、ユダヤの歴史を示す重要な資料となる(1)。しかしながら、そうした数々の証拠も、ここ十年間でようやく明らかになってきた。それまでは、バレアレス諸島にある島は全てマヨルカ島(カタルーニャのマヨルカ)であり、そこには血塗られた歴史しかないとみなす先入観がそうした事実を曇らせてきたのである。イビサ島やフォルメンテーラ島内での、幾世紀にもわたる、ユダヤ人の“負の側面”に限らない“明るい側面”に満ちた生活様式は、これまでほとんど調査されてこなかったのだ。

「マヨルカ島でしかない」とする先入観に加えて、こうした“明るい側面”の見落としが起こった更なる理由として、これらの島々が同時代において、調査をした人によって異なる呼称で呼ばれていたことが挙げられると考えられる。例えば、イビサ島はエイビッサ(Eivissa:カタルーニャ語)、アイビーカ(Ivica)(2)(原文そのまま)、エビサス(Ebisos:ギリシア語)、エブセス(Ebuses:ラテン語)、そしてヤビサ(Yabsa:アラビア語)などと呼ばれていた。イビサは地図上において、ヤバサ(Yabsa)、ヤビカ(Ybica)、エレソス(Eresos)、そしてユイサ(Juisa)と表記され、フォルメンテーラは、オフィーウサ・サーペンタリア(Ofiusa Serpentariaギリシア語)、フルメンタリア(Frumentariaラテン語)と表記された。

一方、こうした多様な呼称がイビサ島民の多重共同体(multi-communal)の起源を示すと言える。同時に、個々の家族がそれぞれ独自のルールに従って生活を営んでいたような、島民の自立した自由主義(individual freedom)への姿勢の基盤であったことがそこから分かる。今日でさえ、他人の生活をあれこれと詮索することは村八分を引き起こしかねない。かつては、こうした姿勢は、ほとんど全ての島民達が関わっていたとされる密輸や海賊行為を成功させるための重大な要因の一つとなっていたのである。そして、こうした自由主義の姿勢が、外部からの侵略から身を隠すときに一役かっていたのである。

おおよそ500年にわたるムーア人(Moorish)の支配の後、ピティウセス諸島民はカトリック以外の宗教に親しんでいたようだ。その後、1235年、ハイメ1世(征服王)がスペインからピティウセス諸島を征服するためにやって来た。偶然にも、その時、多くのユダヤ人行政官が彼と共にやってきた。1492年にスペインから外れる前、ユダヤ人は決まってピティウセス諸島の行政官に任命されていた。より冷酷で搾取的な、マヨルカ島やスペイン本土の公式の役人よりも、ユダヤ人のほうが、好かれながら行政官になっていたのである。

カトリックを支持したイビサ島民は、スペインの至るところで見られたようなカトリックへの熱狂さはなかった。多くの村は小さく使い古された教会を一つ持ち、そこには19世紀の中ごろまで僧侶はいなかった。今日でも、男性は結婚、葬式の時だけ教会に行く。イースターや日曜日のようなキリスト教の祭日にも、あなたは小作人が土地を耕している光景を見ることができるが、重要なことは、土曜日はそうではないということだ。彼らの先祖たちが部外者に対して用心深かったように、もしあなたがそのことについて尋ねたら、彼らはきっと「土曜日に働くのは縁起が良くないんだよ(“It is not lucky to work on Saturday.”)」と答えるであろう(※ユダヤ教の安息日は土曜日とされている)。

 

開かれた秘密共同体

1410年にカトリックの異端審問所(the Inquisition)が設立した後、査察のために訪れた司教総代理(Vicars General)は快適な田舎の家を与えられた。1834年7月15日の恐ろしい異端審問の最後の鎮圧まで、イビザ島を訪れた司教総代理は全員、大変満足して帰路に着き、「島内にユダヤ教、イスラム教を信仰している人は誰もいない」と報告した。イビサ島の資料の調査の結果、私は、1394-1423年、そして1577年と1685年に、多数のユダヤ人の財産が他のユダヤ人の共同体に移送されていたことを突きとめた。これらの情報は全て『ユダヤ人の通り道(the Street of the Jews)』から突きとめたものだ。そこでは、義務付けられた宗教的誓いはユダヤの誓いであったと明確に述べている。それゆえ、お目こぼしを許した司教総代理は、島の居住民に、彼らが最も関心のあるビジネスであるバーバリー海岸(the Barbary Coast)とヨーロッパ商人のルートとの間の、人がいない海(no-man’s-seas)での海賊行為と密輸を許可したのだ(3)。

何百年もの間、ピティウセス諸島は未知の世界として外部にほとんど知られていなかった。訪れるには危険な場所という観念は根拠のないものではなく、時にそれは地元民によって甚大に助長されていた。しかし、イビサ島民、特にイビサ島のユダヤ人は、彼らが望めば至るところに存在するユダヤ人共同体との定期的な連絡方法を有していた。これは観光業の出現までピティウセス諸島の主要な産業であった塩の生産と伴に発展していった。冷凍設備の出現まで、塩は生命維持に必要不可欠な品であり、ヨーロッパ全土の塩はスペインとバレアレス諸島の南部で生産されていた。現地の塩パンが王立保護品であった時でさえも、現地の徴税者はユダヤ人であり、ユダヤ人所有の船で塩を輸出していた。ヨーロッパ中への塩の輸送において、イビサ島とフォルメンテーラ島のユダヤ人は至るところにある彼らの共同体と連絡網を維持することができたのである。

私の調査によれば、至る所からやってきたユダヤ人はイビサの海賊に捉えられても、通常は身代金を免除されて解放された。また宗教裁判所から匿われ、安全な避難所に逃れるための幾多の機会ももたらされた(4)。 マヨルカ島のチュタス(Chuetas:キリスト教に帰化したユダヤ人)のバールーチ・ブランスティン(Baruch Braunstein)は、1718年のヤコブ・カーロン・ヌエズ(Jacob Carlos Nunez)と、彼の二人の従兄弟サミュエル(Samuel)とソロモン ナホン(Solomon Nahon)がイビサの私掠船により捉えられた出来事を年代順に記している。これらの一族の名は異端審問所では良く知られており、パルマ(Palma)区域は一族を当該の異端審問所に引き渡すように命じた。最終的に、彼ら3人のユダヤ人は、スペインで生まれていないということを証明することに成功して、引き渡しは免除された。3年半後、彼らは無事イタリアのレグホン(Leghorn)にたどり着いた。

イビサの記録文書において、私はとある長い追伸が記された短いビジネスレターから、この話の続きを紐解く魅力的な物語を発見するに至った。どうやら捉えられたボートには、三人の縦従兄弟に加えて、二人のユダヤ人が乗船していたのだと見られる。二人の若い少年、彼らの名前もまた同じくヌネズ(Nunez)である。彼らはイビサ島民の協力によって4年間、異端審問所の目を逃れていたのだ。彼らの家族が安全だという知らせが来た時に、彼らは信頼できる船長の保護の下、家に送られた。この手紙はこの地域の王立徴税官のジャシント・リンブード(Jacinto Rimbaud)によって署名されている。イビサの民にとってリンブードとは何世代にもわたって、島の行政管理者だけでなく、ユダヤ人共同体の指導者として知られていた。

イビサのユダヤ人を探すことは困難な仕事だ。街のホールは、書類が腰の高さまで積み上がっており、屋根からの水濡れによりバラバラになっている。しかし近年、驚くべき重要なことが見つかりつつある。14世紀時のエステル記( scroll of the Book of Esther)の断片が発見されたという事実が、エルサレムのヘブライ大学のナダフ(Nadav)教授により確認された。その巻物は切り刻まれ、各々の公的な土地登記の財産処理文書を覆う目的に使われた。今のところ、私たちは1775年、1776年、そして1777年刊の記と中間の巻物を調べた。断片は他の文字を切り刻まないために注意深く裁断された。そして、異端審問の監査の際に、おそらくは巻物は隠された。現在の書士は、私たちが巻物のメモを発見するまで毎年他の巻を調べると約束してくれた。

1775-75の書士はラファエル・オリバー(Rafael Oliver)だった。ラファエルはチュタス(隠れたユダヤ人)の聖職任命権者(the patron saint)だった。少女エスペランザ(Esparanza)のように、ラファエルという名前から他の家族にもみられるように、ユダヤ人の家族の一人であることが読み取れる。(二人の姉妹に両方ともエスペランザと名付けられる場合がある。仮に片方が病気がちで幼くして無くなってしまうだろうと予想された時に、次の子供にも同じ名前が付けられるのである)。ラファエル・オリバーの一族は島で何代も続く書士であり、彼はユダヤ行政官の重要人物の一人であった。

ハプスブルグ家のルイスサルバドア王子(Prince Luis Salvador)であるダイ・バレーン(Die Balearn)は1868年にイビサのユダヤ人共同体について、ユダヤ人共同体は19世紀を通じて続いていたと言及した。(後に発表されるスペイン語訳でのこの声明では、イビサのユダヤ人の生活に関する言及は全て削除されている)。

ユダヤ人の慣習や彼らがピティウセス諸島の商業活動において重要な役割を担っていたとほのめかす一方で、王子は彼らの居住区域がサンクリストベルの女子修道院(San Christobel Convent)の近くであると具体的に突き止めた。また、王子はユダヤ人は外の世界に対してはさも彼らがカトリックであるように扮していたが、共同体の中ではありのままの暮らしをしていたという見解を書き記した。ユダヤ人は共同体内部でのみ婚姻を繰り返すことで外部から明確に隔離されており、彼らの大多数は赤い髪を持ち、その特徴が今日まで引き継がれていると彼は書きとめた。

 

修道院に隠されたシナゴーグ

修道院は地下に隠された秘密のシナゴーグの跡地であり、新しく建てられたサンクリストベル教会(chapel of San Christobel)の礼拝堂の真下に位置していた。地下のシナゴーグへの入り口は今日でも『ユダヤ人の通り(the Street of the Jews)』から垣間見ることができる。危険と見なされていたこの通りはおおよそ80年前に封鎖されていた(5)。

サンクリストベル教会の礼拝堂は、スペインによる迫害期間の間8マイル離れたフォルメンテーラ島に存在したユダヤ人の共同体とリンクしていた。1933年、ユダヤ人フリースクールの前校長ローレンス・ジョージ・ボウマン(Laurence George Bowman)は彼らの家族とそのエリアで休暇を過ごした。イビサのアーカイブスによれば、その時、彼はフォルメンテーラ島の内部にあり、サンクリストベル女子修道院との繋がりがあったキャン・マロイッグ(Can Marroig)を訪れたとされる。

キャン・マロイッグの歴史は1620年まで遡ることとなる。1930年代に、この一般的な家よりも遥かに大きいキャン・マロイッグが、そのオーナーによってペンションとして建設されたが、それはあまり成功しなかった。しかしながらこの家は、ピティウセス諸島の外部から訪れる膨大な数の訪問者達による、ありとあらゆる種類の揉め事を鎮静化させてきた。オーナー達は最初の間はボウマンと彼の家族等に対して自分達はユダヤ人では無いと否定していたが、彼等は後にその事を認め、彼らの家の地下にある秘密のシナゴーグを紹介し、トラー・スクロール(Torah Scroll:律法が記された巻物)やショファー(Shofar:ユダヤ教の宗教行事で用いられる角でできた楽器)を見せた。また、係の者と見られるとある女性がミニヤーン(minyan:ユダヤ教の礼拝において、公的礼拝をするための10人以上の人数のこと)を集めるのが困難になっている事を深く嘆いていた。その後、ボウマンはイギリスの歴史家であるセシル・ローズ教授(Dr. Cecil Roth)に自分が見たものを報告したが、最初は信じてもらえなかった。そして、スペイン内戦の大混乱がその事実を証明する事となったが、その時には援助をするには既に手遅れであった。

 

隠れユダヤ人との出会い

他にも、他の記録文書の一つによると、バルセロナ出身のユダヤ人、ハウスマン氏(Mr. Hausmann)はバレアレス諸島最小の島であるイビサ島を訪れ、チュタス(Chuetas:“豚を喰らう輩pork-eaters”と言う意味がある)と呼ばれていたマラーノ(Marranos:迫害を避けるためにキリスト教に転向したが、ひそかに彼らの宗教を実践し続けたユダヤ人を軽蔑する語)の子孫らと接触したという出来事が報告されている。

彼はもう一人別のユダヤ人と共に同じペンションに滞在しており、二人は手を洗った後に祈りの言葉を捧げていた。数日後、その様子を見ていたとある客人がハウスマン氏に近付き、彼がユダヤ人であるかどうかを尋ねた。ハウスマン氏がユダヤ人であると伝えられたその客人は、ハウスマン氏を抱擁し、深い情愛を込めた口調でこう言った。「あなたは私の兄弟です!」。彼はチュタスの一員だったのだ。彼はハウスマン氏をカフェに連れていき、店の奥深くの隅の席に座らせたかと思うと、慎重に話を始め、そして誰も周囲に聞き耳を立てている人が居ない事を確認するために、せわしくなく辺りを行き来し続けたのであった。彼はハウスマン氏に、島には非常に多くのチュタスが住んでおり、地元のカトリックの神父は秘密裏にラビ(指導者:rabbi)の役も演じているのだという事を伝えた。彼らは秘密の地下室で割礼の儀式を行っていた。彼らはいざとなればすぐに火に投げ込む事が出来る様に幾つかのキャンドルに火を灯して安息日を過ごしていた。それは、かつて彼らの先祖であるマラーノ達が通報者に発見される事を恐れてキャンドルを火に投げ入れていたのと同じ様に自分達もそれに倣っていたのである。また、安息日の午後には、神父や警部、弁護士や医者、薬剤師や他の専門家や知識人といった指導者たちが常々、小一時間一同に会する事でユダヤ人やユダヤ教に関する問題について話し合い、そして散っていったのである(6)。

他にも、高潔な人格者の一人であるグロス氏(Mr. Gross)によるイビザ島の訪問の記録によると、以下の様な出来事が報告されている。

“私は1930年にイビサ島を訪れた。ある日、一人の客人が私の座るテーブルの下へ足を運び、自分がユダヤ人であり、そしてその日の夜にユダヤ人が一同に会するのだという事を私に伝えてくれた。その日の夜になると、彼は私を連れて非常に狭い路地裏に連れていき、地下へと続く隠し階段へと私を案内したのである。そこで私は全ての家族達と出会った。数時間、彼らと会話をし、テフィリン(ヘブライ語聖書の文句が書かれた羊皮紙を入れた、革製で正方形の二つの小箱)や書物、そして中には800年以上の歳月を誇るユダヤのアイテムなどを私に見せてくれたのである。そしてその後、彼らは私にヘブライ語が堪能であるかどうかを尋ねて来た。更に彼らは私に修道女達が住んでいる教会に向かう事が出来るかどうかも尋ねた。教会の長椅子にはヘブライ語で名前が書かれた銀食器が備え付けられており、彼らは私にその名前を解読して欲しかったのである。次の日に、私は教会へ赴き、彼らが言っていた物を見つけるまで教会の至る所を探索し、全ての物に関してメモを取った。そして、丁度教会を離れようとしたときに、私は扉に掛かっている鍵を見つけたのである。誰も死に直面するような危険な目には全く遭いたくは無いのは明白な事である。そのため、私は用心を重ねて鍵を取り、そして扉を閉めに行ったのである。最初に私が見たのは二つの墓である。私はその内の一つの名前を読むことが出来た。その名前はラビ・サミュエル・カルドーソ(Rabbi Samuel Cardozo)である。また、壁面にはユダヤの本やトラー(Torah:律法)、銀の器や他のアイテム類、そしてアーク(Ark:聖櫃)を覆い隠すカーテン(註:Parochetの事だと思われる)や年代物のテフィリンの名前などが書き殴られていた。数日後、司教からメッセージが届き、そこには慎重に慎重を重ねて彼の下を尋ねる事が出来ないかといった内容が書かれていた。私は彼を尋ねた。そして、彼の下を離れる前に、彼の下を尋ねた際に見た彼の小部屋の中のものについて、決して口外しないように約束をされたのである。”

また、我々は、1930年代のイビサ島の司教、イサドロ・マカビッチ(Isadoro Macabich)が、共同体の長として未だにマラーノ様式のユダヤ人スタイルの婚礼の議を取り持とうとしていた事を学んだ。私が初めて1981年にキャン・マロイッグを訪れた時には、新たな地主の不在による、荒廃状態に陥っていた。そして、そこから(キャン・マロイッグの)元のオーナーを見つけ出し、キャン・マロイッグの真実の歴史について知るまでに、地元の居住者の嫌々ながらの協力や不信感を乗り越えた末に、数年越しの年月が掛かった。今日、スペインの公式な指導者と認定されている、元のオーナーの親戚が、キャン・マロイッグを購入した。そして、ユダヤ人の解放による歓喜に満ちた雰囲気の下、幾世紀もの時を超え、隠れユダヤ人の家族達全員が自身の正体を明かしていったのである。この一時の栄光(once-opulent home)を飾った(ユダヤ人の)ホームは、マヨルカにおける恐ろしい反ユダヤ主義に基づく非道な尋問が起こった時に築かれた。そして、隠れユダヤ人たちは、キャン・マロイッグに続いて二十年後の1600年に、イビザ島にて修道会を設立したのである。そこでは、バレアレス諸島における塩の貿易によって繋がり合っていた家族達が生活を送っていた。地元の建築家達や戦前の日々における家の様子を覚えていた人達による協力の下、屋根の無い古代の建築物がどの様な見た目をしていたのかを再現した絵が復元された。その絵からは、キッチンの落とし戸から続いている支柱を今も見る事が出来、同じように、低い天井の部屋にある、地下奥深くにある神聖なシナゴーグへと続く廊下の様子なども見て取る事が出来る(僅かに残っていた石畳の階段が参考となった)。1936年に、トラー・スクロールや他の宗教的なアイテムはバルセロナのシナゴーグに保管される事となり、私は今でもそれらのアイテムはそこに保管されていると信じている。敢えて一つだけ挙げるとするならば、(ユダヤ人)弾圧下のいかなる時代の中でも、スペインに築き上げられたこのシナゴーグは、イビサ人(Ibicenocos)のユダヤ人の信仰を強固に記憶する建造物として復元されるべきであると言える。

 

スペイン内戦によるユダヤ人共同体の瓦解

スペイン内戦が勃発する直前の1936年までは、かつて明確に確認出来ていたユダヤの準共同体的な生活が、イビザ島とフォルメンテーラ島に存在していた。イビザ島では、50人の家族達が定期的に顔を合わせており、彼らの宝物とも言える宗教的なアーティファクト(artifact:工芸品)をとても大切に扱っており、守り続けていた。そうすることで、ラビや高潔な指導者もいない中でもユダヤの教訓をそっくりそのまま手を付けずに後世に伝え残そうとしていたのである。

後の第二次世界大戦へと続いていった1936-39年の間に起きたスペイン内戦は、現存していたユダヤ人共同体を変容させてしまった、ほとんど全ての要因であると考えられる。ピティウセス諸島の多くのユダヤ人の若者たちがスペイン内戦によって死亡した。社会主義者側に立って戦った多くの人々が、マウトハウゼン強制収容所(Mauthausen concentration camp)で生涯を終えることとなった。その間に、共和派(Republicans)やアナキストたち(Anarchists)、イタリア人たち(Italians)やドイツ人たち(Germans)が島に筆舌に尽くし難い大惨事をもたらした。その出来事が起こるまではずっと、島の海岸線の内側では戦争とは無縁の生活が送られていたのである。この衝撃的な出来事が起こって以来、50年が経過した今でも、スペイン内戦で起こった出来事が原因で互いに一切口をきかない兄弟姉妹たちがいる。 

それでも、島々に現存していたユダヤ人たちは今でもそこに残っている。ナチスの迫害を逃れた非常に多くの避難民たちが、イビサ島とフォルメンテーラ島における昔ながらのユダヤの家族たちによって保護されてきた。例えば、地元出身の秘密警察の長はマラーノであり、正式な文書がない限り、しばしばユダヤ人たちを迫害せよとの命令を無視してきた。彼は避難民たちを保護する手助けをし、必要最低限、命に関わるだけの食料を得るための洗礼紙(baptism paper)を発行した。

ゲシュタポの事務所がパルマ(Palma)に設置されていて、そこの捜査官が地元のユダヤ人避難民たちの情報を握っていた最も危険な時期には、イビサ島の市役所は、避難が必要な人々のためにボートを手配していた。また、この間、多くのイビセンコのユダヤ人たちがカトリックに改宗をし、用心深さから彼らの子供たちにもそうさせたのである(7)。

1945年にヨーロッパにおいて停戦が迎えられた後の数年間、幾つかの複雑に絡み合った何とも言い難い状況が見られたイビサ島とフォルメンテーラ島の島々は、ドイツのナチスによる迫害から幾世紀もの期間の間、完璧に(ユダヤ人たちを)匿い続けてきたという評判を得た。島々は、マドリードの政府から発行された公式な記録を全て保管していたことから、その事実を否定する事は不可能である。一方で、この間、大多数の島民たちは貧しかったにも関わらず、島は商業上のビジネスで自分の身をしっかりと固め、その後ようやく、その事実を公表したのである。ナチス党員の中には、孤立し、厳重に守りが固められた飛び地にまだ存在している者たちもいた。そして、非常に多くの人々が気掛かりな事件に巻き込まれて死亡したのであった。

 

ユダヤの再生

1960年代から、ユダヤ人も含む、多くの作家や絵描き、音楽家たちが世界中から島々に彼らのホームを築く目的で訪れはじめた。彼らの多くはベトナム戦争を逃れて来たアメリカ人と合流し、同時に多くの非常に多くの観光客が流入して来るようになったのである。イビセンコのユダヤ人家族のほとんどが彼らの間で結婚を続けてきた一方で、イビセンコの祭りや習慣が祖父母らによって思い起こされることはあるが、ユダヤの生活の中での意味深い側面は全て形骸化していった。

ユダヤ式の生活様式を守り続ける人々も徐々に減少してきた。更に、子どもたちは先祖伝来のユダヤの遺産についてほとんど、もしくは全く知らないで育つようになった。このストーリーが完全に忘れ去られた時が来たら、その時には若者世代の価値観や態度は変わっているだろう。ユダヤに関するテーマを取り扱った書物は一時的な流行となり、ラジオやテレビが取り扱うホロコーストやイスラエル、その他ユダヤに関連した特定の題目のみが興味を引き付け、議論を産み出している。イビセンク研究所(the Institute Eivissenc)といった地元の小さな大学に、自分達のルーツを探るために学生たちのグループが集まって来ている。また、(学生たちの)両親や祖父母らは、比較的近い先祖に対する学生らのインタビュー調査を受けることで、彼等自身が主題になっているのだと知るのである。

しばらくは、残存するイビセンコのユダヤ人の家族らには、自分たちのことを再認識するために最良のものとして、おそらく文化的な行事への参加があるだろう。1986年に開かれたサマー・ユニバーシティ(The Summer University)において、イスラエル代表のサミュエル・ハダス(Samuel Hadas)とマドリードのユダヤ人共同体の統領であるセネター・トレダーノ(Senator Toledano)は、過去に前例が無いほど溢れかえった聴衆の前で講演を行った。その事実が、地元の人々の非常に高い興味関心の度合いを示していると言えよう。上手くいけば、イスラエルや他の四散したユダヤ人共同体(diaspora)による強力な支援のお陰で、ユダヤの再生の息吹はより力強いものとなってくるであろう。

[編集追記:マウンズ氏一同がイビザ島に住み始めたことで、彼らのホームは現地人と、自分達のユダヤのルーツをより深く知ることに興味を持ってやってきた西洋の“落ちこぼれ達(drop-outs)”の両者において、ユダヤ的な色合いを帯びるものとなった。彼等自身がイニシアチブを取る事で、マウンズ氏一同は安息日や祭り、文化的な行事、そして小さな学校を、外部からの金銭的な支援を一切介することなく催す事に成功し、それは、多くの苦しみに耐えて来た人々にとって少なからず意味があった。彼らはユダヤの集団がより大きなステップを踏むための努力を重ねていくことを望んでいる]

 

NOTES

  1. See Transactions of the Jewish Historical Society, XII 247 21,XX 14-15, 35-37.
  2. Jewish Encyclopedia, Riyal MSS of 14th / 15th Century.
  3. See Illes Pitiuses II and Els Libres D’Entreveniments III, Formentera, both by Juan Mari Cardona, Church Archivist of Ibiza, Evissa 1983 (Catalan). See also Historia Ibiza (Spanish), Palma de Majorca, 1960, 5 volumes, by Isadoro Macabich Liobet, Cardona’s predecessor and secret rabbi to the Ibicencos.

  See also Travels in Jewry by Israel Cohen and The Chuetas of Majorca by Baruch Braunstein, (Ktav).

  1. See “The Hitherto Unknown Jews of Ibiza,” Papers, Fourth International Judeo-Spanish Seminar, Glasgow University, March 1984.
  1. “Jewish Connections with Prinz Luis Hapsburg and the Convento of San Christobel,” Papers, Fifth International Judeo-London, March, 1986. (I have given photographs of the synagogue to the Diaspora Museum in Tel Aviv.)
  2. From Travels in Jewry by Israel Cohen.
  3. See Israel Cohen Papers, Zionist Archives, Jerusalem.

 

翻訳元:Survivors of the Spanish Exile: The Underground Jews of Ibiza The Jerusalem Center, February 10, 1988