ポリアモリーとは何か?

 

フランクリン・ヴュー(著),イヴ・リッケルト(編集),生駒 翼(翻訳)

 

 

 

 

 

私はポリアモラス(polyamorous)です。

 

それを最も単純に説明すると、「私は同時期に、全てのパートナー達の十分な知識と同意と共に、複数間のロマンチックな関係を築いており、更にはそれぞれのパートナーたちもまた、他の人々とのロマンチックな関係を築いている」となります。但し、このような単純な説明だけでは、ポリアモリーが持つ複雑で流動的な関係を掴み取ることはできず、ましてやそれがどのように機能するのかなんて説明することはできません。

 

私はおそらく今までずっとポリアモラスであったのだと思います。モノガミー(一夫一婦,単婚)は、私が子供の頃でさえも、全く腑に落ちる考え方ではありませんでした。私は今でも覚えています。よくお話の中で登場する美しいプリンセスたちが、二人の王子様のうちのどちらか一人を選ぶ必要に駆られているのを見るたびに、混乱していたことを。どちらかを選んだ後、プリンセスと選ばれた王子様は共にお城に住む事となりますが、お城が二人の人間だけで住むにしてはとても大きすぎることなんて、みんなが気付いていたはずです。もちろん、お城には片方だけでなく、両方の王子様が住むだけの十分な量の部屋が確保されているはずです。そうでしょう?

 

年を重ねていくにつれて、私の恋愛に対する興味は、理論的なものからより実践的なものへと変化していきました。私はこの愛とロマンスに対する一風変わったアイディアを、ずっと持ち続けていました。私は高校生の時に催されたプロム(Prom:アメリカやカナダの学校で各学年の最後に行われる舞踏会やダンスパーティーのこと)の最中に、二人とデートをしました。更に、私は三者間という関係において童貞を失うこととなりました。その三人とは、私の親友と私、そして私達二人が同時に興味を示した女性のことであり、私達は、彼女の取り合いで口論を重ねる事よりも、彼女への興味を互いに分かち合うことにし、同時に彼女への想いを告げました。そして彼女は、私達二人と一緒になることが、とても魅力的な考え方であることに、気付いたのです。

 

全てが起こったのは、ロナルド・レーガンがまだ私のオフィスにいた頃になります。私は自分が実感していた関係性を言い表す適切な言葉を全く持っていませんでした。「オープン・リレーションシップ(open relationship)」(これは私が探していた“関係性”を正確に言い表すものではありませんでした)や「スウィンガー(swinger)」(この言葉はより不正確です)といった言葉は知っていましたが、これらは私の知る概念とは、正確には一致しませんでした。1992年になって初めて「ポリアモリー(polyamory)」という言葉が誕生しました。その言葉は同時期に二人の異なる人間によって、polyとamoryを組み合わせた混合語として発明されました。

 

1990年代の後半には、この複数間の恋愛関係に基づくアイディアを共有しているグループのメンバーたちと一緒に、どのようにして、このポリアモリーを具体的に実践出来るようになるのかと、話し合いをはじめました。その結果、ポリアモリーを中心軸に、様々な新しい言葉や文化がその周りに形成されていきました。これが私にとって、愛とロマンスに対する自分と同じ考え方を持った人たちとの最初の出会いであり、それは非常に驚くべき瞬間でした。それは、人生で初めて私が“孤立”を全く感じないでいられた瞬間でした。

 

ポリアモリーという言葉が出現する前まで、そしてポリアモリーの共同体が成熟する前までに、私は実践を通して様々なルールを組み立てていきました。私が試行錯誤によって積み上げてきた実践の成果は、いくつかの身に染みる貴重な代償を糧に、とても有益で価値のある洞察を私にもたらしてくれました。これらの濁流を乗りこなすための案内図を必要とし、私が実践する様な関係性を築きたいと密かに願う人々が、必ずどこかに居るのだという確信がなければ、私はこのような壮大で馬鹿げた行いをとっとと終わらせてしまい、たった一人の深く愛情を注ぐことができるパートナーを、誰か捕まえることになったでしょう。

 

今日、昨今まで散らばっていたこの様なコミュニティが、世の主流となって生成されていく大きな流れが出来上がりつつあります。トークショーの主催者やリアリティ番組のプロデューサーは、ポリアモリーに関するプログラムを作成しはじめています。深夜のラジオ番組などでもこのプログラムについて話されており、支援団体なども、一対一以上の恋愛関係を築き上げることを、助言に加えはじめています。しかしながら、主流の文化(mainstream culture)が変化していくスピードはとても穏やかなものであり、ポリアモリーも依然として勘違いされることが多くあります。ポリアモリーは、しばしば、見境いのない乱交関係でしかないと受け取られます。また、時には、宗教的な一夫多妻制と混同されることもあります。そして、人々は、しばしば、私たちのように、一人以上のパートナーと一緒になることを“利己的”だと嘲笑います。(この指摘は、私には少しばかり不可解なものに思われます。なぜなら、私の考えでは、私のパートナーを、私の元に全て占有し、他の誰かと一緒に結び付くことを拒ませるほうが、“利己的”な行いであるように思われるし、一方で、ポリアモリーのように、彼女が私以外の他の誰とでも付き合うことができる関係を築き上げていくほうが、“利己的”とはまるで正反対の行いのように思えるからです。)

 

他のどのサブカルチャーとも同様に、ポリアモリーの共同体の中でも、独自の言語が発達していきました。私たちは「コンパージョン(compersion)」と呼ばれる、恋人に新しく出来た関係への喜びの感情について話し合いました。他にも、私たちは「ポリフィデリティ(polyfidelity)」と言う用語を使うことで、新たなパートナーと関係を築くことを現状では望んでいない複数間パートナー関係を言い表し、新たなパートナー関係を築き上げることを望んでいるメンバーが含まれている複数間パートナー関係と区別しています。また、私たちは「ヴィトー(vetoes)」の是非についても話し合います。ヴィトーとは、彼、もしくは彼女のパートナーに対して、もう一人のパートナーとの関係性を終わらすように要求することができるという、同意に基づく権利のことを指します。私たちは「ニュー・リレイションシップ・エナジー(new relationship energy)」を祝い、そして時に哀しみます。信じられないほど多くの人々が、“愛”や“愛すること”について話しているとき、それぞれの意味するところが非常に異なっていることによって胸が高まり、そして眩暈がするような何とも言えない感情を抱くのです。更に、私たちのパートナー関係の中に現れてくる「メタモラス(metamours)」と呼ばれる人々についても話し合いました。「メタモラス」とは、我々がデートしている最中に、一緒にデートに加わってくる人のことで、それは恋敵になるというよりかは、良き理解者であり、良き助け人であり、そして良き友人となるような存在です。

 

そして私たちは更に先に進むことになります。私が今まで観察してきたポリアモリストと、モノガミスト(monogamous, 単婚主義者)との間の最大の違いは、重ねてきたセックスの回数や、築き上げてきた関係性の差異などにあるのではなく、私たちの関係性に対して、話し合う意志があるか否かにありました。私たちは、その関係性から何が欲しいのか?いかにして関係性を築き上げるのか?どのようにしてその関係性を良い方向に持っていけるのか?といった事について話し合ってきました。そう言えば、私のパートナーの一人が、ある時からかい半分に私に言ってきたことがありました。ポリアモリストにとって、関係性について考えたり話し合ったりすることは、ほとんど趣味の一つみたいなものになっているのだ、と。ポリアモリーの新参者は、しばしばこれだけのレベルの関係性を築き上げていくことに対する恐怖心を抱き、時にはその恐怖心に抵抗できなくなってしまいます。けれども、数年後に同じ人々に会ってみると、彼らは、以前までのモノガミストのような関係や、パートナー同士で何が欲しいのかを滅多に話し合うことのないような、既存の価値観に縛られたままのポリアモラスな関係に戻ることなんて、想像する事すらできない!と、声を揃えて言ってきます。

 

ポリアモラスな人々が、さもテクノロジーに犯された頭のネジがイカれている異教徒か何かの様に思われる風潮が絶えませんが、実際には、ポリアモラスな人々を端的に説明し、当て嵌める事のできる哲学思想は、今だに存在していません。私は今までにポリアモリストでありながらネオラッダイト(neo-Luddites, 技術革新反対主義復興運動者)であるような人と出会ったこともあれば、聖書の解釈を通じてノンモノガミー(non-monogamy, 非単婚主義者)の立場を擁護する福音主義キリスト教徒(evangelical Christians)の人と出会った事もあれば、理性主義(rationalist)に基づく、非宗教的な人道主義ポリアモリスト(secular humanist polyamorists)の人々と出会った事もありました。

 

一方で、ポリアモリーをライフスタイルの一種と捉えると、分かりやすいのかもしれません。ただし、ポリアモリーが、いくつかの合意に基づいた上での、実践が伴うライフスタイルなのだと一口に言っても、その関係性の種類は本当に千差万別です。例えば、トライアド(triads)やクオヅ(quads)、クインツ(quints)とヘクサゴン(hexagons)、そして特に決まった形を持たない開かれたネットワークなどがあります。こういった関係性は、生活を共に営む関係性を持っていたり、広大な距離間のネットワークに及んでいたり、厳密な階級の下で成り立っていたり、より無政府主義的(anarchistic)なものになっていたりします。

 

ありとあらゆる非単婚的な関係(non-monogamous relationship)は、”開かれている(open)”可能性があります。関係性というのは非常に多様なものであり、ポリアモリーというのはそのうちの一つでしかありません。中には新参者に対して冷ややかな態度を取る、閉じられたポリアモリーの関係性もあり、このような関係性は新たな関係を築き、新しい恋人をつくることを道徳的に罪深いものだとみなすという点において、単婚的な関係に酷似しているともいえます。彼らは滅多に二者よりも多い関係性を築き上げることはありません。他にも、より規制が緩く、あまり形式ばっていない関係性というのもあり、そこでは倫理的な取り決めや、実際の運用上の制限などから、一体何人までの関係性なら組み立てることができるのかが決められることはありますが、新たな関係性を築き上げることについてはかなり自由であったりします。(ポリアモリーを語る上でよく言われることがあり、それは「愛に際限は無いが、時間はそうでは無い」という事です。)多くのポリアモラスな関係性はこれら二つの対称的な関係の間のどこかに位置し、大方、特定の条件下で新たなパートナーを招き入れることを許容し、そしてできるだけ長い間、そのパートナーがその新たな関係性の中にい続けることが望ましいとされます。

 

このような多様性があるために、山のように積み重なった”例外”や”条件付け”に言及するのを避けながら「ポリアモリーとは何か?」と語ることは、とても難しいのです。 時には、「ポリアモリーとは何か?」を語っていくよりも、「ポリアモリーと言えないものとは何か?」を語るほうが、より簡単だったりします。カジュアルセックスを楽しむポリアモラスな方々もおりますが、ポリアモリーとは、見境いのない乱交を繰り返すことや、決して満たされることのない、一夜限りの情事を延々と繰り返すことではありません。

 

また、ポリアモリーとは、スワッピング(一時的に互いのパートナーを交換して性交をし、行為が済んだら互いに元のパートナーのもとへ帰宅する)を指すわけでもありません。ポリアモラスな人々の中にはスワッピングをしたり、パートナーたちとの間でより情緒豊かな関係性のスワッピングを行い、結果的に、ポリアモラスな関係を築き上げることになる人もいます。けれども、スワッピングというのは通常セックスのみの話になってしまうことが多く、一方、ポリアモリーというのはよりロマンチックな関係に至る傾向が高いです。

 

ポリアモリーとは、親密な付き合いができないことを意味するわけではありません。私たちはしばしば、排他的な性愛関係を築くことでしか、親愛関係を結べないものだと教えられてきていますが、ポリアモリーにおいては、出来るだけ長い間、人々のニーズが合致し合える関係性を築き合うことに焦点を当てていきます。もしもそうしたニーズの中にモノガミー(一夫一妻制、単婚)が含まれないのであれば、親密な関係性を築くうえで、排他的になることにこだわる必要はなくなってきます。更に言えば、複数間の関係を築き上げ、かつ、その関係を長い間維持し続けることによって、ポリアモリーを実践し続けている人の多くは、計り知れない程の熱意とエネルギーに基づく親愛関係を築き上げていくようになります。

 

ポリアモリーとは、(必ずしも)ハーレムを築き上げることを指すわけではありません。歴史的に、複数間の関係を築くということは、一人の男性に対して複数の女性が寄り添うこと(一夫多妻制)を意味します。確かに、ポリアモリーのコミュニティの中には、このようなハーレム的な関係を築き上げようとする人も少数いますが、どちらかというと多数派ではありません。多くの人々は、女性にも男性にも一人以上のパートナーを輪の中に加える権利を持つ、対等な関係を築き上げることがほとんどです。

 

そして、ポリアモリーとは、(パートナーを)騙すことではありません。これは、ポリアモラスな人だからといって必ずしも人を騙すことがないと言っているのではありません。ここで言う騙しとは、人間関係において、直接的に、もしくは間接的に、約束を破ることを意味します。もしも、関係を築きあげる上で、新たな恋人をその輪に加えることに対してオープンであることを同意していたのならば、既に輪の中にいるパートナー達に内緒で新たな性的なパートナーを加えることは、ルール違反となってしまいます。しかし、単純な話、もしも築き上げている関係性のルールに反しないのであれば、個人的に新たな性愛関係を誰かと築き上げることは、何も問題ありません。

 

もしも全てのポリアモラスな関係性に共通して存在する倫理観やルールがあるのだとしたら、それは”正直さ(honesty)”であることだと思われます。複数間の恋愛関係を築くために行われる、何度も何度も繰り返し話し合いの中で、常に議論の中核となっているものは、”正直さ(honesty)”と”開放性(openness)”になります。健全な複数間の人間関係は、”正直さ(honesty)”を参加者に要求します。ポリアモラスな人々の間で広く共有されている、ポリアモリーを成功させるための最初の三つのルールというものがあります。それは、第一に”対話”、第二に”対話”、そして第三に”対話”を重ねて行くこと(笑)

 


部外者からしてみれば、現実的にポリアモリーを実現するのは、ほとんど不可能に近い試みであるかのように思われます。一対一の関係を築き上げていくのですら大変なのに、それが2つ、3つになればそれだけ二倍、三倍と関係性を維持していくことが困難になってくると、そう言いたいんでしょう?けれども、私は、ポリアモリーは必ずしもモノガミーよりも大変な実践を伴うものではないということに気付きました。少なくとも、私の目にはそう見えます。もちろん、ポリアモリーを実践していくことには多くの労力が伴います。しかし、その労力は、結局のところ、自分自身の問題へと突き当たります。私の場合、ポリアモリーを実践していくために、コミュニケーションや人間関係のスキルを磨き上げる努力を重ね、非常に強力で揺るがない自尊心を鍛え上げ、そして堂々と自信を持って人生を送ることができるようになりました。また、そうしたスキルを自分で磨けば磨くほど、人間関係をより円滑に進めることができるようにもなりました。そうした行いがポリアモラスな関係性を築く上で必要となってくるのであれば、それをやらない理由はないでしょう?

 

要するに、ポリアモラスな関係であろうがなかろうが、自尊心を育み、自信を身に付けたり、そしてコミュニケーション能力を高めていく事は、誰にとっても役に立つことです。これらのスキルはモノガモスな(単婚的な)関係を築いていく上でも、より助けになるものでもあります。一方で、まだ明確な答えを示していない疑問点が残っていると思われます。それは、「ポリアモラスな関係を築いていくことに、果たしてどんなメリットがあるのだろうか?」という点です。

 

ポリアモリーを実践していくメリットは、より多くのパートナーとセックスできることのように、思われるかもしれません。しかし、それは、真実ではありません。私たちは、セックスと恋愛関係が、切っても切り離せない関係にあるという考えを繰り返し教え込まれているため、セックスを一つの単位とする考え方を、自然なことのように思っています。婚外セックスや恋人関係にない者同士での性交渉は、しばしば非道徳的であるとされ、パートナーへの裏切り行為であるとされることすらあります。私たちは、そのような行いをする人に対して、“乱交(promiscuous)”、“売春婦(slut)”、そして“浮気者(tramp)”といったレッテルを貼ったりもします。そのため、一見すると、ポリアモラスな人々は、固い絆で結ばれた関係性を壊してまで、より多くの人々とのセックスに明け暮れ、社会の秩序を破壊している無法者の集団のように思えてしまうでしょう。

 

しかし、ポリアモラスになるというのは、異常な衝動に駆られて見境いのないセックスに溺れてしまうことを意味するのではありません。実際には、無性愛的なポリアモラスな関係を築くことも可能です。ポリアモラスでありながら長きに渡って関係性を継続させる事もできますし、ポリアモラスでありながら(理由の如何に関わらず)セックスを行わないこともできます。人々がなぜポリアモリーを選択したのかを知るには、セックス以上の事柄について言及していく必要があります。

 

他にも、人々がポリアモリーを選択するのは、より多くの出逢いを求め、自分の欲求(needs)を満たすことができるからだという考え方もあります。私が今まで語ってきた多くのポリアモリー理論の中には、「自分の欲求をたった一人の対象に限定して満たしていこうとするのは、合理的ではない。ポリアモラスになると言う事は、異なる欲求を満たしてくれる異なる人々と出逢える事を指し、それらの多様な欲求は必ずしも全ての人間を喜ばせるものではない」というような話もあります。そしてこの事は、おそらく特定の条件下では真実となるでしょう。例えば、BDSM (ボンデージ・ディシプリン・サディズム&マゾヒズム)を探究していくことに興味を抱いており、かつそのような考え方を共有出来なくとも誰かと結婚したいと考えている人は、ともにBDSMを探求していくことが出来る、新たなパートナーを探すこともできます。しかし、私はパートナーに欠陥があるからポリアモラスであるわけではありません。パートナーの不完全さや、欲求充足の不一致などを理由にして、新たなパートナーとの関係を結ぼうとするわけでもありません。もしも私が100%私の欲求を満たしてくれ、100%私の好きな時間に逢うことができ、100%私と相性が合うような非の打ちどころのない完璧なパートナーと巡り合うことができたのだとしても、私はポリアモラスであることをやめないでしょう。私がポリアモラスであるのは、私のパートナーたちの質の高さに由来するものではありません。

 

では、なぜ私はそこまでして、複数間のパートナー関係を結んでいこうとするのでしょうか?それは欲求に基づくものではありません(私は私に何かをしてくれる人を探しているのではありません)。そして、私は心の穴を埋め合わせるために新たなパートナーを求めるわけでもありません(私はありのままで十分に満たされていると感じられます)。では、一体何がポイントとなるのでしょうか?

 

もちろん、ポリアモリーを実践していくことには実用的なメリットもあります。三人でのパートナー関係を築いていれば、困難な状況に陥った時に、より多くのサポートを受けることが可能です。人生の重大な局面において、より多くの視線が問題に対して向けられるし、より多くの人間関係資本(ソーシャル・キャピタル)が大きな助けにもなります。けれども、それ以上に重要な理由があるのです。

 

私のパートナーの内の一人が、アナイス・ニン(フランスの性愛小説家)の美しい言葉を引用して語ってくれたことがありました。それは、“私達の友達が、私達に新たな世界を運んでくれます。彼らが目の前に現れてくれない限り、世界はうまれません。そして何よりも、彼らとの出会いを通じてしか、新たな世界はうまれて来ないのです(Each friend represents a world in us, a world not born until they arrive, and it is only by this meeting that a new world is born.)”という台詞です。この台詞は私の考え方ととても力強く合致しました。多くの出会いが、私に新たな世界を見せてくれました。人間関係を通じて、私の人生はより豊かなものへとなっていきましたし、同時に、私に関わる身近な人々の人生を、私自身が豊かにさせていく機会も得ることができました。特に友人関係よりも、愛の関係や、恋愛関係を通じて、私達の世界は開けていきました。

 

同じことが私の恋人たちにも言えます。私にとって、私のパートナーが一人で私の傍にいることは、さして重要なことではありません。私のパートナーが、私に愛情や尊敬、慈しみの心を持って接してくれていれば、そして私たちが築いてきた関係性が私たちに喜びをもたらしてくれていれば、彼女が私以外のパートナーと関係を結んでいるかどうかなんてことは、些細なことだと私には感じられます。彼女が私以外の人間と関係を築き上げていこうとする動機の中に、私が悪い影響を与えている、といったことはありません。私は、パートナーに対して十分な恩恵を与えることができないから、パートナーが他に別のパートナーを求めているのだなんてことは信じていません。実際には、私のパートナーが新たな人間関係を築き上げることで、彼女の人生がより豊かなものとなり、彼女より幸せにしてくれるのであれば、私と彼女の関係でさえもより良いものへと成長していくことができるのです。

 

以上に述べた回答に対して、「いやでも、これは当てはまる時と当てはまらない時があるよね?」と疑念を抱く人も中にはまだいると思います。多くの人々からしてみれば、モノガミー(一夫一妻制)こそが社会システムを回す上で上手く機能するものであり、ポリアモリー(責任ある非一夫一妻制)なんてものは、現実的に考えればまるで上手くいくはずがないと考えるでしょう。けれども、私のような人にとっては、ポリアモリーと言うのはとても自然に合致する考え方であり、直観的なレベルでシンプルに、納得のいく考え方であるのです。

 

自然にポリアモリーのライフスタイルを選択している人にとっても、もちろん念入りな心配り(care)は必要となります。三者間の恋愛関係を築きあげるためには、少なくとも三者間の要因が絡む、様々な試行錯誤を繰り返していく必要があります。より多くの人があなたの心配りを信頼するということによって、彼らに対してどのように実際に心配りをしていけば良いのかを学んでいく必要が出てきます。ポリアモリーを実践する人々は、出来る限り多くの時間や関心を、人間関係のスキルの向上にあてるようになってきます。なぜならば、我々が住むこの社会では、そのような良き人間関係を円滑に回していく術を教えてくれる機会が、残念ながら今のところ皆無だからです。

 

世界中の至るところで、コミュニケーションスキルというと、永遠に私たちの性欲を満たし続けてくれるような“運命の人”をできる限り早く探し当てることができるようになるための、とっておきの技術のことだと思われているふしがありますね。それ以前に、私たちは禁欲的になることを通じて関係を結んでいくような恋愛の作法しか教わっていません。「心配は要らないよ」といった台詞が、現存のカルチャーの中にはしばしば出てきます。さらに、それに続いて、「君もいつか、たった一人の運命の人(soul mate)を探し当てたら分かるよ。それさえできれば、君はいつまでも永遠に幸せになることができる。もしも幸せになれなかったのだとしたら、それはただ単に運命の人ではなかったというだけの話さ」とも言われます。このような言い方は、間違いなくウォルト・ディズニーによる影響が大きいでしょう。ディズニーは、雑なストーリーテリングを仕掛けていて、我々は少なからず、現実世界において、そこから悪影響を受けています。

 

ポリアモリーを実践する人々は、人間関係において、あまり多くのモデルを必要としません。一方でモノガミーの人々は、基本的なルール設定や、期待、社会的な規範、会話、そして憶測などを通じて、互いを縛り合おうとします。我々のようなポリアモラスな人々、特にポリアモリー的なコミュニティが存在する以前から無意識のうちにポリアモラスであった人々は、私たちがずっと不自然で違和感のある作法を実践し続けてしまっているように感じていました。社会が私たちに対して、人間関係の基本的なことを教えることなく、発展的な内容のカリキュラムに基づいたヘタクソな授業を展開しているように、私たちには思えたのです。

 

実際のところ、ほとんどのコミュニケーションスキルはモノガモスな人々にとってしか有益なものではなく、ポリアモリーに合致するようなスキルは皆無といってもいいかもしれません。我々の社会は、非常に恐ろしいことに、人間関係の最大の基盤となるコミュニケーションの方法について、ほとんど人々に教えていないのです。恥じらいや恐れをなくして人々が自由闊達に話し合える場でさえ、多くのセクシャリティや恋愛、そして人間関係に関する問題が、“なかったこと”にされてしまいます。私は、これらの問題を、町の掲示板に載せたり、小学校の教科書に載せていくべきだと、心の底から感じています。

 

ありとあらゆる事柄にいえることではありますが、深い人間関係を築く上でコミュニケーションが不可欠であると知ることと、それを実際に上手にできるようになることとの間には大きな開きがあります。非常に多くの障壁が、良きコミュニケーションを築いていくことを邪魔してしまいます。セックスに関することなどは特に。拒絶への恐れが、一つ大きな原因となっています。例えば、「もしも私が耳にしたくもないようなことを聞いてしまったら一体どうすれば良いと言うのでしょうか!?」「もしも彼が『嫌だ!』と断って来てしまったら?」「もし彼女が私の要求をとても気味の悪いものだと感じてしまったら??」「もしも私が過敏に反応するあまり、パートナーが私のことを上手く扱えなかったのだとしたら?」といった具合に疑心暗鬼になってしまいます。

 

私の友人がかつて私に言ったように、ほとんど全てのコミュニケーションの問題には共通する点があります。それは、他人が自分たちをどう思っているかをコントロールしようと試み、ただ単に恐れを回避するために自己防衛的になってしまうといったことから生じるのです。全てに関していえることですが、コミュニケーションにおいては、最大限の勇気を持って動いていくことでしか、報われることはないのです。

 

もちろん、オープンなコミュニケーションをとることによって生じるデメリットもあります。一度その様なオープンなコミュニケーションをとるべく試行錯誤をはじめると、ラブコメディーの映画を観るのが耐えられなくなってきます。(少なくとも、以前よりも幾分か観るに耐えられなくなってきます)ポリアモリーのグループメンバーと一緒にラブコメディーの映画を観に行くと、決まって「何で彼らはもっと互いに話し合ったりしないんだ!?」といった議論がはじまります(笑)

 

ポリアモリーを実践していくのに必要なスキルの一つが、期待マネジメント(expectation management)です。これを習得するのは難しいです。私たちはどうしても、直接話し合って決めたわけでもない、憶測から生まれる期待を他人に対して抱いてしまうもので、更に、自分がそうやって無意識のうちに「期待している」という事実を受け入れることもなかなかできないからです。誰かが期待に反した時、その人が「間違いを犯したのだ」と感じるのは簡単です。そして、私たちが「間違えた」と感じた時、「これは、正常な期待だったのかな?」と尋ねたり、「この人は、私がこういう期待を抱いていた事を知っていたのかな?」と確かめたりすることは、とても難しく思えます。私たちが不快に感じたからといって、誰かが間違いを犯したというわけではありません。

 

パートナーを選択する力はまた別のスキルであり、これはモノガミーであろうがポリアモリーであろうが誰にでも役立つものです。私たちが誰かを想い、そしてその人が私たちを想っている(両想い)時に、私たちはあまりにも短絡的にそうした方法でしか、お付き合いがはじまらないと思い込んでいます。しかしながら、ディズニー映画を何百時間と見続けてきたにも関わらず、実際には、本当の親愛関係を結べるようになるまでには時間がかかります。

 

私が今まで経験して来た中で、最も受け入れるのに時間がかかったことは、まだよきパートナーとなったとはいえない人に対してさえも、深く、真に、心から愛することは可能だということです。あらかじめ何か問題を起こさないように、パートナーを慎重に選んでいく作業は、とても多くの時間を要してしまいます。

 

ポリアモリーに特有の、数少ない必須の人間関係スキルの多くは、Googleカレンダーを用いた「タイムマネジメントの問題」と、より安全な性生活を目指した「性感染症リスクマネジメント(STI risk management)の問題」に行き当ります。これを実践するために、私たちはしばしば心を自由に開いて対話を重ねていく時間を設けたり、性病の定期検査を行ったり、恥じらいを一旦脇に置いてセクシャルヘルスに関する話をする時間を非常に重要なものとして認識します。

 

直感的に捉えると、ポリアモラスな人々は、モノガモスな人々以上に性感染症に掛かるリスクをより多く抱えているように見えます。けれども、数少ないリサーチ結果に基づくと、この捉え方は必ずしも当てはまらないものだと分かります。例えば、2012年に発行された性医療ジャーナル(The Journal of Sexual Medicine)によると、“cheatingをしている人達は、開かれたノンモノガモスな人達と比べると、より安全な性交渉を結んでいこうとする意識が低い”と言う結果が出ており、このことは、名目上はモノガミーだけれども、実際にはcheatingをしている人々は、ノンモノガミーに対してオープンな姿勢を取っている人々と比べて、遥かにリスキーなセックスに耽溺していることを意味します。この結論は、他にも数多くの研究結果を掘り起こすこととなり、それらは首尾一貫して、嘘つきたちは、より安全な性交渉を行おうとする気がなく、性感染症への無知を抱えたまま、パートナーとリスクの高い行為に及んでしまっているということを示しています。

 

もちろん、私はここで全てのモノガモスな人々が性感染症リスクに対して無頓着だとか、全てのポリアモラスな人々がそれに対して気を使えている、なんてことを主張したいのではありません。ですが、ポリアモラスな人々は、セクシャルヘルスを自明なものだと決め付けてしまわない傾向にあります。私はモノガモスな人々の中で、新たな恋人を迎える前に、ちゃんと性感染症検査(STI testing)に関する話し合いをしたり、性愛の歴史やセクシャルヘルスについて語り合ったりする人々がほとんどいないのを知っています。それに加えて、多くの恋愛物語は、性感染症検査に関する話や性愛の歴史に関する話などを展開するのに欠いているように見えます。一方、私の経験に基づけば、ポリアモラスな人々の中では、いつも必ず、性感染症に関する話にきめ細かく気を配ったり、検査の結果を互いのパートナー間で交換し合い、新たな恋人を迎える前に性感染症のリスクや性遍歴に関する話し合いの機会が設けられます。実際に、本当に驚くほど多くのポリアモラスな人々が、Google Docsや、それに類するツールを用いて、検査の結果を照会し合うことで、パートナー同士で検査の結果を確認し合えるようにしています。もしも、私の恋人たちのネットワークの中の一人が、新たなパートナーと性的な関係を結びたいと申し出たら、私たちは最初にそれについてかなりの長い時間、話し合うことにしています。

 

私は今までに、いざポリアモリーを実践しようとすると、驚愕したりひどく怖気付いたりする人々を本当に沢山見てきました。これまでに挙げたような膨大な責任の数々が、外側にいる人々、特に、モノガミーを前提としたルールや価値観をこれまで実践して来た人々からすると、とても奇怪なものに見えてしまうのです。ポリアモリーの実践者たちが、セクシャルヘルスや人間関係に対する合意といったデリケートな話題について、オープンに話し合っている様子が、特におぞましいものとして目に映ります。

 

カップルたち、特にポリアモリーを初めて実践してみようとする人たちに陥りやすいことの一つに、モノガミーに基づく考え方や話し合いのやり方に執着してしまうことがあります。そうすることによって、彼らは今までの関係を維持し続けられると期待してしまうのです。そうした、一般的に起こりやすい現象のことを、私たちポリアモリー実践者は「ユニコーン・ハンターズ(unicorn hunters)」と呼んでいます。ユニコーン・ハンターズとは、ロマンチックに、もしくは性的に、カップルたちと関係を結ぶ事に同意をし、なおかつ、他の誰とも関係を結ばない、と約束をした、独身、バイセクシャル、もしくはポリアモスな女性を探しているカップルたちのことを指します。

 

一見、これは非倫理的な行いではないように思えます。多くの男性は、パートナーの女性を他の男性とシェアすることを恐れています。ポリアモリーを実践し始める理由として多くのカップルたちが挙げるのが、パートナーの女性が他の女性とも性的な関係を結びたいと思ったからだ、というものです。バイセクシャルなパートナーを一人見つけるのと何が違うのでしょうか?しかし、残念ながら、このアプローチには多くの問題が含まれています。まずひとつめに、多くのカップルがこのような組み合わせを望んでいるため、独身で、かつ、こうした関係性に対して寛容なバイセクシャルな女性を探し出す競争は、時に、凶暴で激しいものとなってしまうのです。更に、多くの人々が、「私と付き合っているならば、あなたは他の誰とも付き合ってはならない」といった、束縛的な関係にうんざりしているからこそ、ポリアモラスな関係に足を踏み入れようとしたはずなのに、ポリアモリーのコミュニティが、逆に、束縛的な関係の中で新たなパートナーを探そうとするものとなってしまい、本末転倒となってしまうのです。

 

時々、とある人が、あるカップルの片方と仲良くなり、カップルのもう片方とも交流が生まれ、三者の関係性が形成されることがありますが、それは、相手とセックスをしたならば、その人のパートナーともセックスをする必要があると “期待(expectation) ”をすることとは大きく意味が異なります。

 

セクシャルな関係とロマンチックな関係が同時に、同じスピードで、異なる二人の相手と共に発展していくことは、滅多にありません。上から目線で高圧的に、「もしもあなたが私とセックスをしたならば、あなたは私のパートナーともセックスをしなければならない」と相手に強要することは、互いに対する、尊敬の気持ちが欠けたものです。にも関わらず、非常に多くのポリアモラスでバイセクシャルな女性が、デートに同伴するのを一度きりと決めたり、同伴するのに条件を付けたりします。彼らの多くは、ポリアモリーに参入したばかりであったり、彼らの経験があまり前向きなものではなかったりします。更に最も驚くべきこととして、ポリアモリーに参入したばかりのカップルたちが、構造的なアプローチでは、嫉妬の感情を制御することが滅多にできないのだと、気付くことがあります。

 

ユニコーン・ハンターズは別として、既存のカップルのメンバーたちが、新たなパートナーと関係を結ぶことは、そのパートナーに対して多大なアドバンテージをもたらします。カップルたちが共有して来た歴史や経験、はたまた言語でさえも、新たにそのパートナーと共有することとなるのです。にも関わらず、既存のカップルのメンバーの一人が気分を害した時には(こういう事は遅かれ早かれ起こります。慣れ親しんだ関係を変えることには、いつ如何なる場合においても多かれ少なかれ不快さを伴うものですし、ましてや新たなメンバーを加えるのは大きな変化です!)、しばしばその新参者のみに批難の矛先が向けられてしまうことがあります。

 

既存のカップルが、心から、新参者に対しても平等な立ち位置を与える、と信じていたとしても、残念ながらそれはほとんど事実ではありません。例えば、以下の二つのケースの違いについて考えてみてください。

 

一つは、妻が夫に対して、「私……ちょっと今不愉快な気分になっちゃっているのよ。お願いだから、私の機嫌が直るまで、○○さん(新しいパートナー)とセックスをするのは止めてくれないかしら?」と、尋ねるケースで、もう一つは、新しいパートナーが夫に対して、「私……ちょっと今不愉快な気分になっちゃっているのよ。お願いだから、私の機嫌が直るまで、奥さんとセックスをするのは止めてくれないかしら?」と言うケースです。

 

理屈だけで考えてみると、二人の人間が、もう一人の恋人をシェアしたとしても、誰も嫉妬なんかしないように思えます。しかし、実際には、嫉妬という感情は必ずしも理性的に捉え切れるものではありません。間違いなく、あなたの恋人は、あなたともう一人のパートナーとセックスをすることに関して嫉妬の感情をおぼえることとなります。そうした事態が起きた場合には、しばしばカップル達は新たなパートナーを責める方法を探そうとしてしまいます。(このことを私の友人は「カップルの玩具になる(being a couple’s chew toy)」と言ったりします。)

 

私はここで、カップルたちがそうした嫉妬に基づく関係を求めることが悪いと言いたいわけでも、その様な関係が全く上手くいかないなどと言いたいわけでもありません。むしろ、私が言いたいのは、嫉妬に基づく関係を継続させるのは難しいのだということです。なぜならそうした関係は、しばしば期待外れや恐怖心、そして偏見などから生じるものだからです。

 

既存の枠組みに当てはめることをせずに、新しい人間関係を築き上げていこうとする試みは、一見、非常に危ういもののように見えますが、実際にはそうした試みは、ほぼ必ず、上手くいくといっていいでしょう。人間関係が上手くいくときと言うのは、ぽっかりと空いてしまった自分の心の穴を埋め合わせてくれる誰かを探しているときではなく、誰かが安心してそこにいることのできる居場所を探し、創り上げようとしているときなのです。

 

(ポリアモリーを実践する)多くの初心者のカップルたちが、他に行うアプローチの一つとして、互いに交渉を重ねていく中で、明確にルールを記載した、長々しいリストを作る、という方法があります。彼らは、こうしたことで、安全感覚を確保しようとするのです。またしても、理論上は、完璧な方法に見えます。もしもあなたが、妻が他の人と手をつなぐのを見ることによって嫉妬の感情をおぼえてしまうことを心配するのだとしたら、なぜあなたは「妻は新しいボーイフレンドと手を繋いではならない」とリストに記入しないのでしょうか?もしもあなたが夫の甘えてくる様子に対して特別な感情を抱くのだとすれば、夫に対してそうした行いを他の誰にもして欲しくないと頼むことだってできるはずです。そうでしょう?

 

実際には、そうしたリストが現実世界で上手く機能することなど滅多にありません。多かれ少なかれ、人々はデートをするときに、事前に大量の約束を交わすなんてことはしたくないからです。想像してみてください。もしも一人の人間が初めてのデートの際に、ペットの名前から自分の性癖まで書かれたリストを、共に食事をしていたレストランの前菜からデザートまでの間に広げて見せてきたとしたら、一体どんなことが起こってしまうのでしょうか?ほとんどの人は、それを見て、その人が、突然予想もしていなかった奇異な不幸話でもはじめてしまったのかと驚くでしょう(笑)

 

そういうこと以上に、私たち人間は不慣れな状況において、我々がどのような行動を取ることになるのかを予め予測する能力には長けていません。本当の意味で、新たな人間関係において色々と考えなければならなくなるのは、実際に何か問題が起きてから、ということがほとんどでしょう。ルールに基づく人間関係は、幻想に満ちた安全感覚を人々にもたらすことになりますが、そうして決められた約束というのは、必ず実行されるわけではありません。ポリアモリーの初心者が長ったらしいルール表を持ち込んでくることはよく見られる光景ですが、ベテランのポリアモリー実践者からはそうした光景はほとんど見られません。幻想に満ちた安全感覚を保ち続けるのは困難です。人生というのは常に勇気を試されるものであり、尚且つ、勇気を出すに値するものなのです。

 

ポリアモリーには勇気が求められます。ポリアモリーを実践するにあたって、貴方のパートナーが、より素敵なパートナーに巡りあえたからといって、読み終わった昨日の朝刊のように、貴方を捨て置いたりはしないと信じる勇気が必要になります。また、貴方のパートナーが別れを切り出してきたのだとしても、それでも物事は全て上手くいくのだと信じる勇気が求められるのです。

 

ポリアモリーを実践する人の中には、ポリアモリーに基づく人間関係を強固に、かつ幸福に満ちたものにするためには、性的に、もしくは情動的にもパートナーに対して排他的になることを要求する必要がある、と主張する人々もいます。しかし、もしも関係が固定的であり、更に人々が愛情深くそこに関与しているのだとしたら、パートナーに対して他の誰とも関係を結んでいかないようにと要求する必要はなくなります。それに、もしも関係が強固でも健康的でもなく、また、誰もがそのグループに対して深く関与しているわけでもなかったとしたら、グループを保つためにパートナーの(そのグループ以外の)他者との結び付きを調整する必要があるのか、試行錯誤する必要はあまりなくなります。

 

私が今までポリアモリーを見てきた中で、最も素晴らしいと思ったものの一つに、非常に豊富な人間関係のモデルがあるということがあります。愛情深い関与に対するアイディアを膨らませる機会は、私たちの身近にたくさん眠っています。私たちは、孤独になることに恐怖心を抱える必要はないのです。

 

関係というのはいつか終わりを迎えます。ポリアモラスな世界においては、モノガモスな世界と同様に、優先順位は変わるものです。人々が離れ離れになるように成長していくこともあります。モノガミーの世界においては、新たな人間関係を築くことは、古い人間関係を決別することを意味します。そのため、人々は、己の伴侶が浮気をしたり、素敵な他人に気持ちがなびいていかないように、また、新たな人間関係にアクセスしていかないように、防衛戦を張るようになります。ポリアモリーにおいては、新たな人間関係を創造することが、古い人間関係の終焉を意味するものとはなりません。しかしながら、それでも尚、人間関係と言うのは終わりを迎える事があります。それは、ポリアモリーにおいても変わらないものなのです……

 

一見、ポリアモリーを実践する人々の数がまだ非常に少ない事から、ポリアモリーに対して前向きな考え方を持っている相性の良いパートナーを探し出すことは、統計的に実現不可能であるかのように思えます。けれども、私たちはこの70億人と言う途方も無く膨大で、しかもその数も日々私たちが把握することが出来ないほど変わり続けているこの地球という世界に住んでいます。仮に20分の1の数の人々が全員ポリアモリーに対して前向きな姿勢を持っていて、その中でも半分の人々のみがセックスに関する話し合いを設けることに対して寛容であり、更にその中でも10%の人々のみが地理的にも交流することが可能な場所に住んでいて、そして更に“その内”の10%の人々のみがオンライン上であれ、リアルな世界であれ、接点を結ぶことができるのだとすれば、それでも尚、75,000~100,000人の人々が残っています。もちろん、更によりポリアモラスに近い人々を厳選したのだとしても、途方も無い数の人々が存在します。私たちの人間関係が充足したものになるのか、それとも欠乏感に満ちたものになるのかの分かれ道は、私たちがどれだけ多くの機会に巡り会えるかにかかっています。極端な話ではありますが、ここにふたりの人間が居るとします。ひとりは人間関係が充足していると信じていて、更に関係を結ぶ機会というのも容易に探し出すことが出来ると信じています。一方、もうひとりは、人間関係が満たされていないと信じています。このふたりは、新たなパートナーを見出すために、異なる経験を積み重ねることになるでしょう。愛は滅多に成立するものではなく、人間関係は滅多に満たされるものではないという考え方に基づくと、一度結んだ人間関係は固く保持する必要があります。もしもその関係を終わらせてしまったなら、他のパートナーと巡り合う可能性は滅多になく、更には喪失によってうまれる嫉妬や恐怖の感情に苛まれるであろうと予測されるからです。

 

今、私が述べたように、ポリアモリーについて議論を重ねていくと、必ず出てくるキーワードが「嫉妬」です。私はよく、こんなことを聞かれたり、伝えられたりします。「嫉妬しないの!?どうやって嫉妬心と付き合っているの?」「私は嫉妬深い人間です……だから、私はポリアモラスになることができません」

 

そして、私に対して向けられる言葉の中で、最も困惑させられるものとして「もしも貴方がパートナーの浮気に対して嫉妬をおぼえないのだとしたら、それは、貴方が彼女のことを心の底から愛しているわけではないということを意味している」という台詞がありました。

 

これらの考え方には全て、暗黙の共通の前提が存在します。それは、『嫉妬心はパートナーの行動によって引き起こされる。嫉妬を感じる人と言うのは、嫉妬の感情を経験する普通の人と言うよりも、「嫉妬型」に分類される人間である。嫉妬に解決策は無く、パートナーの性的な行動によって必然的に引き起こされてしまうものである。嫉妬心は愛の証明である。嫉妬とは常に悪いものであり、嫉妬を避けることが良好な人間関係を築き上げていくコツである』と言った前提です。

 

不思議なことに、私たちは嫉妬以外の感情に対して同じように考えるわけではありません。私たちは、『私は「怒り型」の人間なんです。私は一般的な人とは少し違うのです』と、人々が言うのを聞いたことはありませんし、私たちは『君も知っていると思うけど、僕ってさ、誰かと一緒に共同生活を送りたいとは思わないんだ。だって、そのせいで自分の感情が乱されたら、一体どうすれば良いんだよ?』と、言うわけでもありません。仮に、誰かが引越しを計画しているのだとして、新しい家を見たときに、「あら!何て段差の高い階段なのかしら?あなた、こんな階段を使ったらイラついて仕方が無いんじゃないかしら?」などと言うわけでもありません。

 

私たちは、あらゆる感情的な反応は、人間である以上、当たりに備わっている機能の一部であると受け入れているはずです。私たちは、心配したり、希望を抱いたり、退屈したり、穏やかな気分になったり、怒ったり、悲しんだり、喜んだり、がっかりしたりと……多種多様な感情を感じますし、“通常ならば”、ロマンと冒険に満ち溢れた人生を生きていくうえで、こうした感情を排除したり、一部の感情に自分の全てを同一化させたりもしません。

 

それなのに、こと「嫉妬」に関しては、私たちはそれを、普通に人が感じる感情の一部と捉えるのではなく、恐ろしいものであり、破滅をもたらすモンスターであり、ありとあらゆる関係を壊してしまうものであると捉えてしまいがちです。確かに、ポリアモラスな人々でさえも、時には嫉妬を感じる事もありますし、怒ったり、ハッピーになったり、不機嫌になったり、幸福感に包まれたり、心が折れたり、焦燥感に駆られたり、驚いたり、ストレスを感じたり、希望に満ち溢れたり、疑心暗鬼に駆られたり……と、他にも普通の人間である以上感じる、ありとあらゆる感情を感じるものです。しかしながら、より重要なことは、ポリアモラスな人々は、嫉妬が他の感情と別に大きく異なるものではないのだと理解しているということです。ポリアモラスな人々の間では、自分とパートナーとの間に何が起こっているのかに注目するよりも、私たちの心の中でどのような出来事が起こっているのかに着眼点を置くことこそが重要であると言われています。

 

実は、ずっと以前の話ではありますが、人間関係の中で、私は自分の内に潜む、強烈な嫉妬心に出くわすことになったことがあります。その時、私は、彼女が悪い事をしたのだから、私が嫉妬の感情を抱くのは当然だと思い込んでいました。それが原因となって、ほとんど破壊的な衝動に任せた結果、私と彼女との関係は終わることになりました。後になって、私は本当は一体何が起こったのかを知ることとなり、そこで初めて、自分の内に潜む嫉妬の感情と正面から向き合うようになったのです。

 

私がその出来事から学んだ最も大きなことは、彼女の行動によって私の中の嫉妬心が引き起こされたわけではなかったということです。そうではなく、それは、彼女の新たな人間関係に対して私が抱いた疑念から引き起こされたものだったのです。私には、彼女が何かしらの形で証拠を見せ続けてくれない限り、恋人として彼女に相応しい男であると感じられるだけの自信が無かったのです。更に、当時の私には、「ああ……あの、さ。君が興味を持っているこの男はさ……その、何というか、僕と君との関係を変えるものでは無いんだよね?」と、単に一言彼女に尋ねるだけのコミュニケーションスキル、もしくは勇気が足りなかったのです……

 

人間関係を通じて、単に嫉妬心に対処していくよりも、幅広い適応力を持つことの方が大事なのだと痛感したことが、この経験から得た教訓でした。たとえ、私がどんなに気になって仕方がない人であっても、その人が下す決断は、ほとんどの場合、私とは全く関係の無い視点からなされているという事実は、私の人生の中で、非常に大きな部分を占めています。私たちはしばしば自分こそが宇宙の中心に立っていて、自分の人生における主人公そのものであると考える傾向があり、そのため、身の回りで起きた出来事は全て自分に関わる出来事なのだと勘違いしがちです。恋人の決断でさえ、自分とは関係ないものだと知ることは、恋愛関係において、私たちのストレスを大きく減らしてくれます。

 

他にも私が学んだ事として、嫉妬というのはほとんど全て他の感情に根ざすものであり、例えばそれは、安全を脅かされることへの不安であったり、喪失や見捨てられることへの恐怖であったりするということです。嫉妬心を克服しようとする試みと、より安全であろうとする試みは、切っても切り離せない仲にあります。奥に潜んでいる感情を探ってみると、実際には、嫉妬の裏には何も隠れていなく、「ちょっと待てよ!何でこんなものに自分は今まで振り回されて来ていたのだろうか?」と、拍子抜けすることもあります。

 

別の言い方をするならば、嫉妬と言うのは他のどの感情とも同じで、極めておかしなものとだというわけでもなく、何の変哲のないものなのです。嫉妬というのは単なる感情です。他のどの感情とも同じで、我々の脳内で生み出された非言語的な情報の一種なのです。それはおそらく、「おーい!見棄てられるのが怖いんだよ!!」と言ったり、「もう!欲求不満で仕方が無いんだよ!!」と言ったりするのと同じで、さして怖がる必要も無い感情なのです。嫉妬は怖がるのではなく、寧ろそれについてお互い考えてみたり、理解し合ったり、話し合ってみたりする必要のあるものであり、そして、そうする事によって、いつの間にか雲散霧消するものです。

 

そうやって言われると、嫉妬を処理していくことはとてもシンプルなことのように思われますが、実際には、“シンプル(simple)”なのと“イージー(easy)”なのとは意味が全く異なります。嫉妬に対処するためのツールについて議論を重ねていくと、それだけでもモノガミーだろうがポリアモリーだろうが、いかなる人間関係にも通用する本が一冊分書けてしまうので、今回は割愛しますが、ほんの少しだけ明かすと、嫉妬への対処の仕方(jealousy management)と言うのは練習によって誰でも身に付けることが可能なスキルであり、それは別に秘伝の奥義や、過酷な修業の果てに手に入れるようなものではありません(笑)それは、ポリアモラスであろうがそうでなかろうが、誰にとっても有益なスキルなのです。

 

さて、長きに渡って色々と述べてきましたが、結局のところ、ポリアモリーの世界に足を踏み入れるためのコツは、一体何なのでしょうか?

 

ポリアモリーを経験してみることが、疑いようもなく最も実践的な学びとなりますが、それは実際にはとてもハードルの高いものです。我々自身が失敗するより、他人の失敗から学び取った方が良いこともあります。ポリアモラスな人々を探す事は難しいように思われますが、最近では、世界の主要な都市にポリアモリーのコミュニティが出来上がりつつあります。バイブル・ベルト(Bible Belt、聖書地帯)の中でさえそれが見られますし、他にも貴方が予想もしていなかったような地域でも見ることが出来るでしょう。ポリアモリーが盛んな地域を探すのはとても簡単で、Googleを使って“ポリアモリー”と打ち、その後に都市や街の名前を入れて検索をかければ良いのです。そしてもう一つ、より簡単に他のポリアモラスな人々を探す方法としては、正直になることです。ポリアモラスな人々を探すのに成功するのはいつも、人々がオープンに自己開示をした時なのです。

 

昨今では、ポリアモリーが主流の文化と成りつつあるので、多くのリソースが増え始めています。ポリアモリーに関する本もあれば、雑誌もあれば、それを支持する団体やウェブサイトもありますし、他にも色々なリソースが存在します。私自身も実はウェブサイトを運営していて(Polyamory FAQ - More Than Two)、主にポリアモリーの初心者を対象とした情報発信をしています。

 

PolyMatchMakerOkCupid: Free Online Datingの様なポリアモリーマッチングサイトもあります。後者のサイトはポリアモリーに限らないのですが、それでも非常に多くのポリアモラスな人々が利用しています。TheEthicalSlutOpening Upのような書籍も存在します。他にも多くのツールや本を私のウェブサイトで紹介してあります。

 

仮にポリアモリーが貴方とは関係ないものだとしても、ポリアモリーのコミュニティは今や主流の文化と成りつつあり、彼らは関係や前提、期待感などについて、今までやって来なかったようなやり方を試行錯誤しつつあります。ポリアモリーはモノガミーと同様に、誰に対しても当てはまるものではありません。人間関係と言うのは、一様には言い難いものだからです。ポリアモリーについて話し合いを重ねていく事の最大の価値として、既存の人間関係の価値観からどんどん自由になっていき、新たな人間関係の在り方を思うがままに開拓していけることがあるでしょう。

 

 

 

 

翻訳元:What is Polyamory?